第一章 最悪の日
4.
町外れにある剣道道場『陵明館』では、休むことなく毎日のように竹刀の交わる音が聞こえてくる。
けれど、夕飯時のこの時間は流石に練習は終わっている。
しかし、今日に限っては普段の数段激しい乾いた音にプラスして怒声までが聞こえてきた。
「敬史のばかたれえええぇぇぇぇぇっ!!」
咆哮するのは、セーラー服を身に纏った少女―――アパートを飛び出したはずの尊である。
尊は並みならぬ気迫………いや、殺気の籠った竹刀を目の前の男を目掛けて振るう。
「お前さ、その掛声はないだろ」
そう言って、剣道というイメージからかけ離れた金髪の男は、速さのみなら高校生で日本一を誇ると言っても過言ではない尊の竹刀を難無く受け止めた。
それもその筈。相手は、青年部全国3位の腕前を持つのだ。
高校剣道で名が知れ渡っている割には、毎回ベスト8止まりの尊とは最初から実力が違う。
「バカにバカって言ってるから、間違いじゃないよ!敬史なんか、ボッコボコのボッロボロのギッタギタだからね!!」
「無理無理。尊が六歳の時から、毎日稽古をつけてきたのは俺だぜ。お前の癖なんかお見通しだ」
「うるさい!っていうか、ちゃんと面つけてよ!面!!」
「面なんか必要最低限はつけねぇよ。親父をみろ。つか、親父の頭」
「師範はハゲててもダンディーだからいいの!むしろ、あんたがハゲちゃえ!ハゲ敬史!!」
「だーれがハゲだ。俺はまだふさふさだっつの」
「これから来るんだよーだ!その時になって髪を痛めつけたことを後悔しつつ、抜け毛をティッシュに包んで埋葬するがいいさ!!」
鍔迫り合いになりながら、至近距離で会話する二人。
傍から見れば、戯れあっているようにも見える。
この男……陵明館の跡取り息子である日野敬史こそが尊の愛する姉の心を奪った男だ。
アパートを飛び足した尊は同じ町内にある、六歳の頃からお世話になっている陵明館に駆け込み、夜間部の練習の準備をしていた敬史に勝負を挑んだのだ。
挑んだと言うか………問答無用で殴り掛かったのである。
そして、今に至る。
「昔は『敬史兄ちゃん』って俺の後をちょこちょこついてきたのに、いつからこんな可愛げがなくなったんだか」
昔を振り返りながら、敬史は愁いを含んだ瞳で尊を見つめる。
それは、敬史の嘘でも思い込みでもない。確かに幼い頃の尊は、自分より七歳年上の敬史を兄のように慕って懐いていた。
そう。あの日、全てを知るまでは。
「………昔のあたしが、いろいろと間違ってたの!」
過去の自分を振り切るように叫び、腕を突き出して鍔迫り合いを解く。
尊には、どうしても敬史を『敬史兄ちゃん』と呼べなくなった理由があるのだ。
「お漏らしの後始末も俺がしてやってたのに………」
「それは言うなぁぁぁっ!!」
尊は思い出したくもない過去に顔を真っ赤に染めた。
竹刀を握り締めると、敬史に向かって振り降ろす。
隙を狙ったわけでも計算したわけでもない攻撃は簡単に防がれてしまい、それが余計に尊の怒りを誘う。
「なんで防げるのさぁ!!」
「実力の差」
「うがああぁぁぁっ!!」
十年来の付き合いは伊達じゃなく、敬史は尊の神経を逆撫でするのがうまい。
風を切って竹刀を薙ぎ払う尊の型が、少しずつ崩れ始めてきた。
「お前は本当に実戦型だな。型を無視しすぎだ。だから、ベスト8止まりなんだぞ」
「どうせいつも反則負けだよ!!」
尊の竹刀を避けたり、受け止めたりしている敬史に言われ、不快感も露に口をヘの字に曲げた。
血が上ると、頭で考えるよりも先に身体が動く。自分でも分かっている悪い癖だからこそ、余計に腹が立つ。
繰り出す一撃一撃が敬史に当たる様子はまったくなくて。それどころか、敬史から竹刀を振るうこともない。
悔しさに唇を噛み、尊は敬史から間合いを取って竹刀を降ろした。漸く諦めたと思ったのか、敬史も同じように竹刀を降ろす。
けれど、それは違う。
「まじめにやって!ちゃんとあたしと勝負してよ!!」
真剣な顔で訴えた尊に、敬史は驚いて目を瞠る。
しかし、すぐにその顔を曇らせると大きく溜息をついた。
「そんなに俺と佐奈さんが結婚するのが嫌か?」
「敬史が……?」
尊の目から哀しみが引く。
代わりに溢れ出したのは、先程よりも膨大な殺意。
「敬史と佐奈ちゃんが結婚するのが問題じゃないっ!!佐奈ちゃんがっ………あたしのたった一人のお姉ちゃんが結婚するのが嫌なのぉっ!!」
嫌だった。
我儘と言われようと、佐奈はお前のものじゃないと言われようと嫌だった。
佐奈に想いを寄せる男は誰も彼も嫌いだが、依りにもよって敬史。
幼い頃から知りすぎているだけ余計に腹立たしい。
「あたしが手塩にかけて育てた佐奈ちゃんが敬史に奪われるなんて!こんなことになるなら、佐奈ちゃんにしつこく付きまとっていた御曹司とやらを、しばき倒しちゃうんじゃなかった!!」
「お前、なんてことを………」
「って、そんなのはどうでもいい!!」
思考を追い出すように頭を振ると、尊はキッと敬史を睨み付けた。
「この十六年間、佐奈ちゃんを守るのがあたしの役目だった」
いつも尊を第一に考えてくれる優しい佐奈は、自慢の姉であり、尊の大事なお姫様だった。
馬鹿みたいにお人好しな上に身体も丈夫ではなくて、尊が何を置いても守らなければいけない存在。
十年前に父と母が交通事故で死んでから、その気持ちに更に拍車が掛かった。
尊が日夜この道場に通い剣道に励むようになった発端だって、元を辿れば佐奈を守るためなのだ。
「佐奈ちゃんがあたしの全てだった」
誰に笑われようと馬鹿にされようと、佐奈を守ることが尊の全てだった。
世界の中心が佐奈だと言っても決して過言ではない。
「敬史に佐奈ちゃんを渡したくない。でも、佐奈ちゃんがね『みぃちゃんが反対なら結婚やめるわ』っていうの」
やめて欲しいのではない。
佐奈には誰よりも幸せになって欲しい。
尊がすることは、笑って佐奈におめでとうを言うことなのだ。
そんなことは分かっている。
だけど、きっかけが欲しかった。
自分の我儘を振り払うためのきっかけが。
それは自分より強い相手に佐奈を守る任務を譲ること。
「だから、敬史。あたしと真剣に勝負して。そうじゃなきゃ、佐奈ちゃんはあげない」
再び真剣みを帯びた瞳を見つめた敬史の口元に笑みが浮かぶ。
「お前が俺を敬史兄ちゃんって呼ばなくなったのは、俺が佐奈さんを好きになり始めたころだったな」
「………覚えてない」
「俺は覚えてる。お前の敵にロックオンされてショックだったのと、なんでバレたのかってびっくりしたからな」
敬史が佐奈に惚れているなんて、そんなことすぐに分かった。
佐奈が敬史を気に入っていたのも。
だって、尊はいつだって見ていたから。
幼い頃から、ずっとずっと長い間………。
「俺は佐奈さんを愛しているけど、それと同じくらいお前に『義兄(』になるのを認めてほしい」
微笑を浮かべながら、敬史は竹刀を構えた。
敬史が相手を強敵だと思った時にしか使わない上段の構え。尊相手には、一度足りとも使ってくれたことがなかった。
「佐奈さんをずっと見てきたお前に、佐奈さんに相応しいか認めてほしい」
尊も自分の得意な下段へと竹刀を構えた。
敬史が本気になれば、きっと勝負は一撃で決まる。
だから、この一撃に全てを………自分が今まで敬史に習ってきた全てを賭ける。
間合いもタイミングも計らずに、尊は敬史の元へと突っ込んだ。『速さ』だけが、敬史に勝てる尊の唯一の技だからこそ。
勝負は一瞬でついた。
「強くなったな」
愛弟子の成長に、敬史は嬉しそうに笑う。
尊の竹刀は敬史の肩に当たって止まっていた。防具なしの試合なのだから、寸止めがセオリーなのに軽く接触してしまった。
スピードをつけるために竹刀を勢いよく振るう尊は、寸止めが苦手なのである。
「型さえ無視しなきゃ決勝出られるぞ」
「型を無視したから、肩に入ったの」
呟いて深々と溜息をつく。
首下には敬史の竹刀が突き付けられていた。尊の肌には一切触れていない、見事な寸止め。
勝敗なんか分かりきっていたし、なんだかんだ言って敬史のことも認めていた。
ただ、こうしなければ尊が前に進めなかったのだ。
「あ〜あ、負けちゃったぁ」
敬史の肩から竹刀を引いて、尊は盛大に息を吐き出す。
悔しくはなかった。尊の本気に敬史はちゃんと応えてくれたから。
一つ大きな深呼吸をすると、真剣な瞳で敬史を見つめてから尊は口を開く。
「敬史に、あたしの宝物をあげる。世界で一番大切な佐奈ちゃんをあげる」
両親が死んでから十年間、二人きりの姉妹として頑張ってきた。
たった一人の家族で、大好きな人。佐奈の傍にいて守っていたのは自分で、これからもそうなのだと思っていた。
自分の役目を奪われるのは腹立たしくて嫌だけど………敬史だからこそ任せられる。
「佐奈ちゃん守る役目、敬史に譲ったげるよ」
その言葉は、尊の中で最高の殺し文句だ。
尊が佐奈を守ることを何よりも……大好きな剣道より最優先にしていたのを知る敬史だからこそ分かる。
「お前が佐奈さんの妹で………いや、佐奈さんがお前の姉さんで良かった」
心からの想いを述べる敬史の言葉に、尊は返事をしない。
突然踵を返すと、道場の隅に置かれた通学鞄を背負い竹刀を担いで、出入口へと向かった。
「おい、尊……っ?」
唐突な行動に、尊を引き止めようとする敬史。
尊は足を止めると、出入口に手を掛けて振り返る。
「佐奈ちゃんを頼んだよ、敬史兄ちゃん!」
尊は今まで生きてきた中で、最上級の笑顔を浮かべた。
「おう」
尊の笑顔に答えるように敬史も優しい笑みを尊に向ける。
佐奈が尊に笑いかけるものと同種の笑みを見据えてから、尊は靴もちゃんと履かずに走って道場を出て行った。
その目に涙が滲んでいたことは、敬史も………尊自身も気付いていなかった。
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