第一章 最悪の日

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  3.  

とぼとぼと道を歩きながら、尊はむぅと眉を寄せて溜息をついた。
(明日は絶対に智子に絞られるだろうなぁ)
そして、梨絵は怒ったりはしないだろうが、好きな相手を言うまでは引かないだろう。
大人しく見えて梨絵はいざとなったらてこでも動かず、ある意味では智子よりも怖い。
別に好きな相手を言うことが恥ずかしいわけではない………というわけでもないが、それよりも口に出してしまうことが嫌だった。
口に出してしまうとその感情を認めることになるから。
認めていないわけではないのだが、はっきり認めてしまうというのも癪なのだ。
恋心に癪というのも変な話なのだが………。

考え込んでいる間にいつの間にか家についていた。
築30年の年季ばりばりのボロアパートが尊と佐奈が住んでいる家だ。
「おや尊ちゃん、お帰り」
「ただいま、おばあちゃん」
101号室に住むおばあちゃんに笑顔で挨拶をしてから203号室に向かう。
住んでいる人はほとんど顔見知りのアパートは雨漏りが気になるが、住めば都でなかなかいいところだ。
玄関のドアを開けるとおいしそうな夕飯の香り。
頬を緩めながら靴を脱いで茶の間に向かうと、

「おかえりなさい、みぃちゃん」

柔らかい笑顔を浮かべて佐奈が迎えてくれる。

「ただいまー」
そのまま甘えるように佐奈に抱きついて、その豊かな胸に顔を埋める。
「あらあら、甘えん坊さんね」
佐奈はそんな尊を振り払うこともなく優しく尊の頭を撫でる。
この瞬間がどうしようもなく幸せで、尊は至福の笑みを浮かべた。
真っ白い肌にくっきり二重瞼の大きな眼。おっとりとした性格に美女と呼ぶに相応しい風貌。
血の繋がりを疑われるほどに尊には似ていないが、正真正銘の姉である。
「ほら、お父さんとお母さんにただいまは?」
「あ、はーい」
佐奈から離れて茶の間の隅にある箪笥に向かう。
そこに尊の両親がいる。

「お父さんお母さん、ただいま」

そう言ってから、箪笥の上にある両親が仲睦まじく写っている写真に笑いかけた。
仏壇を買うお金はないので、この写真立てと水の入ったコップを乗せた箪笥が仏壇代わりだ。
両親は十年前に交通事故で亡くなった。
それからはずっと佐奈と二人暮しをしている。
一人っ子同士の両親は親もすでになく、親戚はほとんどいないも同然だった。
普通ならば施設に預けられていたのだろうが、死亡保険がおりたおかげで親戚のおばさんに保護者になってもらい二人で暮らすことが出来たのだ。
佐奈は高校を卒業をして小さな町工場の事務を務め、尊を養ってくれている。
年の離れた姉は、友人のような母のような、たまに妹のようにも思える大切な存在なのだ。

「今日のご飯は?」
「みぃちゃんの好きな肉じゃがよ」
「わーいっ」
ケーキをホール三個分食べても、夕飯はちゃんと食べられる。
だって、甘いものとしょっぱいもの別腹だから。
席について手を合わせると、佐奈が茶碗の上に箸を置いて尊を真剣な瞳で見つめている。
「あのね、お話があるの」
見たことのない雰囲気に気圧された尊は正座をして背筋を伸ばす。
佐奈はじっと尊を見つめると、コホンと咳払いをしてから本題に入った。

「お姉ちゃん、結婚しようと思ってるの」

食べる前にいってくれたのは正解だ。何か口に含んでいようものなら思いっきり噴き出していた。
がたんとちゃぶ台に引っかかりながらも勢いよく立ち上がった。

「結婚!?結婚って!?」
「えっと、男女が夫婦になることかな。つまりは婚姻を結ぶって意味ね」
違う。そういう意味じゃない。結婚の意味を聞いているわけでは決してないのだ。
この重大発表でなんでこんなボケをかませるのだろうか、この人は。
まあ、そこがたまらなく可愛いのだが。
「あ、みぃちゃんは何も心配しなくて大丈夫よ。みぃちゃんは今までどおり、お姉ちゃんと一緒だからね」
つまり、結婚相手とやらは尊のことも面倒を見るといっているのだろう。
そういえば佐奈は常に『みぃちゃんのことも愛せる人じゃなきゃ好きになれないわ』といっていた。
そこまで思ってくれているのは文句なしに感無量だが、いつの間に結婚するような相手が出来ていたというのだろう。
佐奈に近付く男はことごとく排除していたと言うのに、何処でその難関を逃れた男がいたというのだろう。

「それに相手はみぃちゃんもよく知ってる人よ」

目を逸らしたかったのに、視線は佐奈の唇に釘付けだった。

嫌だ、そんな奴の名前は聞きたくない。
大好きな姉を奪う男の名前なんか聞きたくない。
いつかは離れなきゃいけないことは分かっている。
だけど、どうして今なのだろうか。
まだ、自分には必要なのだ。
自分だけを愛してくれる姉の………佐奈の存在が。

形のいい唇が開く。
告げられた名前は確かによく知る相手の名前だった。

日野(ひの)敬史(けいし)くん。みぃちゃんも敬史くんのこと好きでしょう?」

キレイなキレイな笑顔。
少し照れているのか赤らんだ頬。でも、とてもとても幸せそうな顔。

嬉しかった。
その言葉に嘘はない。
大好きな大切な姉。
そんな姉がこんな表情を浮かべるのだから、きっと幸せになれるだろう。
だけど。

「………みぃちゃんは嫌?」

硬直して無言になってしまった尊に佐奈が声を掛ける。
佐奈の顔が曇るが、それは尊を心配しての顔だった。

「ごめんね、お姉ちゃんみぃちゃんのこと考えてなかったわ。ちゃんとみぃちゃんに話してから結婚を決めなきゃいけなかったね」

違うの、嫌じゃない。
そうじゃなくて、あたしは―――。

言いたいことは山ほどあるのに喉が閉まったように声が出ない。
尊が何もいえないうちに、佐奈は自己完結をしてしまったらしい。
伸ばされた腕に身を竦めると、優しく佐奈に抱き締められた。

「みぃちゃんが反対なら結婚やめるわ。みぃちゃんが喜ばない結婚はしたくないの。お姉ちゃん、みぃちゃんが誰よりも大切だから」

優しくて暖かい抱擁。
色んな感情が交差して泣きそうになる。
何か言わなきゃと思うのだが、口を開くと嗚咽しか出なさそうだ。
けれど、今泣いてしまうと佐奈を責める意味の涙になってしまうのは分かっている。
尊に出来ることは佐奈の抱擁から逃れることだった。

「みぃちゃん………」
身を捩って佐奈から離れると、佐奈が泣きそうな目でこちらを見ている。

「―――っ!!」

それこそ尊も泣きそうだったが、何とか耐えて身を翻す。
学校鞄を蹴り飛ばし、何も考えずそれと立てかけた竹刀袋を掴むとアパートを飛び出した。
向かうところはただ一つ。
愛する姉の心を奪った、あのくそ野郎の元に決まっている。
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