第三章:異世界
1.
「ぶぷっ!!」
顔から地面へと勢い良くダイビングした。
思っていたよりも地面は近かったようであまり痛みはない。あの高い位置から落ちてこの衝撃は軽すぎる気がするが。
頬にちくちくと草が当たって痛い。
「…………草?」
そこで漸く疑問が湧いた。石畳の上に草はなかった筈だ。
恐る恐る顔を上げて、尊は目玉が飛び出すのではないかと思うくらいに目を見開いた。
辺り一面の木々。
薄暗かった天井は、今や晴れ渡る青空。石畳だった床は、草の生い茂った地面へと変わっている。
クライヴも布男も兵士たちもいない。
そこは見たことのない森の中だった。
「ミコト、大丈夫?」
『きゅー!』
俯せ状態の尊の元に駆け寄って来るのは、テオドシウスと角の生えた子犬。
一人と一匹の無事な姿を確認して安堵する。
「階段から落ちたのに、どうしてこんな所に?」
草に支えの手をついて尊は身体を起こす。
怒涛の展開に呑まれてしまったのか、酷く身体が疲れている。何だか頭も痛い。
「あれ?」
身体を起こした尊は、己が寝そべっていた場所を見て思わず声をあげた。
尊の形にへこんだ草の上に小汚い物が落ちて………地面にめり込んでいた。
判別しようと目を瞬くと、もぞもぞとソレが動き始めた。ソレは徐々に膨らんでいき、尊の愛するものの姿になる。
「ポン太!?」
どうやら尊は、この森に来たと同時にディア・ガディアスを下敷にしていたらしい。
「ご、ごめん!!大丈夫、ポン太?」
心配から伸ばされた尊の手を、ディア・ガディアスは俯せのまま冷たく払い除けた。
ぬいぐるみの手なので痛くはないが明確な拒絶に尊は眉を寄せた。
「俺に気安く触んな。それに、俺はポン太なんてマヌケな名前じゃねェ」
感情が読めない声。
ディア・ガディアスの台詞に、ポン太の中にはまったく知らない人の魂が入っていることを思い出した。
今のポン太は外見がポン太でも中身はディア・ガディアスという悪魔(推測)が入っているのだ。
でも………。
尊は再び腕を伸ばして、ディア・ガディアスを膝の上に抱き上げた。
「あそこから移動出来たのはポン太の力だよね。ありがとう、ポン太」
階段から落ちそうになった時、ディア・ガディアスが眩く光った。証拠はないが、ディア・ガディアスが瞬間移動のような魔法を使ったのだろう。
自分も一緒に落ちていたから魔法を使ったのかもしれないが、それでも尊を助けてくれたことに間違いない。
だから、やっぱり尊にとってポン太はポン太なのだ。
「ポン太って呼ぶな!テメェ、人の話を聞いてんのか!!」
膝の上で暴れるディア・ガディアスを気にしないようにして、尊はテオドシウスに笑顔を向けた。
「とりあえず、あの人たちからは離れられて一安心だね。大丈夫?怪我とかしなかった………んーと、テオ?」
テオドシウスでは長いので省略して名前を呼んでみた。
首を傾げての呼び掛けに、少年は天使と見紛うほどの可愛らしい微笑みを浮かべる。
「僕は大丈夫だよ。ミコトが守ってくれたから」
「ま、守ったなんて!あたしは大したことしてないよ」
「ううん。ミコトが居たから、あの人たちから逃げられたんだよ」
「………テオはあの人たちとどんな関係なの?」
ずっと気になっていたことを尋ねた。
仲間じゃないことは確かだ。
あの場にいたものは、テオドシウスのことを人として扱っていなかった。媒体、媒体と物のように扱っていた。
「分かんない……。僕は自分の部屋にいたのに。気が付くと、ミコトが僕のことを起こしてたの」
「それって誘拐!?」
相手は問答無用で尊を殺そうとしていた人々なので考えられないことではない。
テオドシウスがいた魔方陣に不慮の事故でポン太がいたため、ポン太の中にディア・ガディアスが入った。
と言うことは、彼らの当初の予定ではテオドシウスの中にディア・ガディアスを入れようとしていたのだ。
無機物のポン太だからディア・ガディアスが入っても抵抗はないが、もし意思のある人の中にディア・ガディアスが入ったとしたならば、テオドシウスはいったいどうなってしまっていたのか……。
考えるだけで寒気が走る。
「取りあえず、警察に行こう。訳を話してテオのお家を探してもらおう。警察だって、ポン太を見れば一発で信じてくれるよ」
しゃべるタヌキのぬいぐるみ。それに角の生えた子犬。
オカルト否定派だって、これを見れば信じるしかないだろう。
「んなことしても、無駄だ」
勢い込んだ尊に、尊の膝から降りたディア・ガディアスが冷たい台詞を吐く。
「何で無駄なんて言うの?そりゃあ、信じてもらうまでに時間はかかると思うけどさ」
「そういうことじゃねェ。ここには警察なんていねェんだよ」
「え?じゃあ、やっぱりここは日本じゃないってこと!?えっと……警察いない国ってどこ?」
「日本じゃない、か……。国どころの規模じゃねェぞ」
くくっと楽しそうな笑い声をもらすディア・ガディアスに、尊の背筋がぞわぞわと逆立つ。
酷く嫌な予感がする。
やはりここは死後の世界なのだろうか。冗談だと思いたかったが、まさか死んでしまったなんて………。
青褪めていく尊の耳に、予想とは全く違った答えが届いた。
「テメェは別世界に来ちまったんだよ」
「ベツセカイ?」
鸚鵡返しに言ってみた。
首を傾げる尊に、ディア・ガディアスは更に冷たい声で告げた。
「異世界ってヤツだよ。テメェの好きなナルニア国物語みたいに異世界に来ちまったんだよ」
すりすりと子ダールに身を寄せられながら尊は目を瞬いた。
どうして、尊がナルニア国物語の愛読者だと知っているのか。
いや、そんなことよりも考えることはある。
ナルニア国といえば、衣装箪笥からナルニアという別世界に行ってしまう話だ。個人的には、悪い魔女を倒すという第一作目がとても気に入っていた。
(ああ、そっか。ベツセカイってこのこと………)
納得しかけた尊は、慌てて考え直しぶんぶんと頭を振った。
「う、うそだよね!?だって、あたしは―――!!」
「トラックに轢かれた。それなのに、何でテメェは病院じゃなくてこんなとこにいる?」
「それは………。でも、異世界なのになんで言葉が通じるの?ご都合主義にも程があると思います!!」
「身も蓋もねェこと言うな。何でテメェの言葉が通じるのか理由は分からねェが、逆に外国だったら何で日本語が通じんだよ?」
「あ……」
確かに異世界にきて言葉が通じる不思議よりも、外国で日本語が通じる方が不思議だ。
鎧を着て真剣を持った男たち。喋って動くぬいぐるみ。角を持った子犬。
尊の十六年の人生観を一切否定するかのような存在たち。
確かにこれらのものが現代日本にいると考えるよりは、異世界に来てしまったと考えるほうが楽なのかもしれない。
「………トラックに轢かれて死ぬよりは断然いいかぁ」
疲れたように呟いて、尊は晴れ渡った青空を見上げた。
「はっ!信じるのかよ、異世界に来たってことを」
馬鹿にしたように鼻で笑うディア・ガディアスに対し、尊は悟ったかのように一つ溜息をついて子ダールの角に振れた。
「全てを信用するわけじゃないけど、だからって現実逃避はしないよ。ポン太が動いたり、角のある犬がいたり、信じられないことならたくさんあるし。正直、異世界ってよりはオカルト集団に拉致られたって感じなんだけどね」
異世界らしいものを見ていないので何とも言えないが、ポン太や子ダールに、平然と剣を抜く兵士を見た後では有り得ることだと思うしかない。
それに死んだと言われるよりは、異世界に来てしまったと言われる方が気は楽だ。
死んだらどうにもならないが、生きてさえいれば佐奈に逢える。
それに、ポン太……ディア・ガディアスが地球への戻り方を教えてくれるだろう。
こうなれば開き直るが勝ちだ。
ただでさえ、順応性が高いと評価されている日本人。その現代っ子をナメないでもらいたい。
「でも、なんであたしがどうして異世界に来ちゃったの?」
「あのクソ布が俺様を呼び出そうとして随分と無理したみてェだな。次元がぐちゃぐちゃに乱れてやがった。テメェはその歪みにまんまと嵌まったんだよ」
「………それって、簡単に言うと『偶然』?」
「そういうことだ」
がくりと倒れそうになった自分を地面に腕をついて支える。
運命でも定めでもなくて偶然。ただの偶然。
偶然で殺されそうになったり、死にそうになったりだなんて本気で洒落にならない。
「ミコトは聖神界から来たんじゃないの?」
思案に耽る尊に、不思議そうに小首を傾げて尋ねるテオドシウス。
「違ェよ。コイツは、聖神界(とは………俺たちの輪廻とは外れた場所の人間だ」
尊の代わりに答えたのは、ディア・ガディアスだ。
何故なのかは分からないが、ディア・ガディアスは地球の事を……いや、尊自身の事情をよく知っている。
だいたい尊がナルニア国物語を愛読していることは、佐奈しか知らないことなのだ。
「ラウディールって?それが、この世界の名前なの?」
「ううん。この世界の名前は『ネフィーリア』。それでね、ここは『人間界(』だよ」
「ね、ネフィーリアにエディアール?」
また知らない単語が増えた。
世界がネフィーリアで、ここがエディアールとはどういう意味なのか?
エディアールが国の名前なのだろうか。
眉を寄せる尊に助け船を出したのは、意外なことにディア・ガディアスだった。
「ネフィーリアってのは、お前の世界で言う地球のことだ。人間界(ってのは人間(………人が住う地。聖神界(には俺たち聖神(、人間(に言わせりゃ、神が住む地ってことだな」
「神様?じゃあ、ラウディールから来たポン太は神様ってことなの!?」
「地球の神とは定義が違ェぞ。存在する次元が違う上に、人間(にはない力を持ってるから神と呼ばれるだけだ」
「ふむふむ」
「二つの世界の繋がりは召喚(……召喚のみだ。人間界(で、聖神界(に住むヤツを呼び出す形になる。基本的に、人間(は人間界(から離れられねェ」
「ラウルが、リ……リアース?それをされずに、勝手にエディアールを行き来することは無理なの?」
「無理だ。こっちに来ること自体、かなりの誓約があるしな」
吐き捨てるようにディア・ガディアスが言うところを見ると、その誓約とやらは面倒臭いものなのだろう。
「ポン太がこの子を呼び出せたのは?」
いつの間にか、デオドシウスの膝の上で丸くなって寝ている子ダールに目を落とす。
角さえなければ、本当にただの子犬と変わらないのだが。
「そいつは聖獣(。聖神界(には聖神(だけじゃなくて、ソイツや聖霊(ってのも存在してる。人間共も限られたヤツなら出来るが、俺たちは楽にソイツらを召喚(出来る。もちろんながら、テメェの魔力に応じたヤツしか召喚(出来ねェけどな」
ディア・ガディアスはバツが悪そうに頭を掻くと、先程までとは一転してぼそぼそと言った。
「だってのに、そんな役にも立たねェダールが出てきやがった。しかも、聖神界(に戻りゃしねェし………。俺様の魔力で有り得ねェだろ!!」
ディア・ガディアスの怒鳴り声に目が覚めたのか、それとも言い草が気に入らなかったのか、テオドシウスの膝で子ダールが非難するように鳴いた。
それに気分を害したディア・ガディアスが、子ダールを綿入り布の手でパンチする。
子ダールはきゅうと一声鳴いて膝から立ち上がると、ディア・ガディアスに頭から食い付いた。
「ポン太って、そんなに偉い聖神(なの?」
自信過剰なディア・ガディアスに疑問を持った尊は、子ダールに頭を喰われて暴れるディア・ガディアスを無視して、隣に座るテオドシウスに密かに尋ねた。
「そうだよ、ミコト。ディア・ガディアスは破壊と終焉を司る聖神なんだ」
「破壊と終焉………。めちゃくちゃ悪者っぽいね」
「うん。召喚(されては、何度も人間界(を滅ぼしかけて禁呪(になったの。あ、禁呪(って、偉い魔導師様が召喚(出来ないようにって封印したことだよ。でも、ここにいるってことは禁呪(が解けちゃったのかな?」
頭を子ダールの口の中に収めてバタバタしているディア・ガディアスを横目で見る。
そんな恐ろしいものには、とてもじゃないが見えなかった。
噂と言うのも無責任なものだから、たまたましたちっちゃい悪事が尾ひれに背びれに胸びれまでついて大げさな噂になったのだろう。
尊が解析した限りでは、ディア・ガディアスは本物の悪にはなりきれないタイプだ。
なんて言うか、詰めが甘そう。
飽きたのか子ダールがポン太を解放して、テオドシウスにすり寄っていた。
「で、どうすればあたしは帰れるの?」
帰るのはテオドシウスを送り届けてからだが、地球に帰る方法ぐらいは聞いておきたい。
尊の質問に、子ダールの涎でべたべたになったディア・ガディアスが剣呑な表情で振り返る。
「はぁ?俺が知るわきゃねェだろ」
「え?」
思いもよらない答えだった。
ディア・ガディアスは尊のことをとても細かく知っているようだったので、そんな投げやりな答えが返ってくるとは思わなかったのだ。
「知らない、って………じゃあ、あたしはどうやって家に帰ればいいの?」
「前例がねェんだよ。聖神界(に迷い込んだ人間(の話なら聞いたことあるが、異世界からネフィーリアに来たヤツなんて初めてだ」
「嘘………」
「わざわざ嘘なんかつくかよ、馬鹿くせェ。だいたい地球なんつー世界の存在、このぬいぐるみの記憶を覗くまで知らなかったしな」
「ポン太の記憶………?」
「器物にも記憶はあんだよ。特にこのぬいぐるみみてェに命が吹き込まれてる場合はな」
ディア・ガディアスと初めて口を聞いた(というか、怒鳴られた)時にも、同じような台詞を言われた。
何となく意味が分かってきた尊だが、今はそれより遥かに重大なことがあった。
「帰れないって嘘だよね?」
ディア・ガディアスの身体を掴み、顔の前まで持ち上げる。
「だって、あたしはこの世界に好きで来たんじゃないんだよ。勝手に連れてこられて帰れないってどういうこと……?」
悪い冗談を聞いた時のように片頬を上げて引き攣った笑みを浮かべ、ディア・ガディアスに告げると言うよりは独り言のように呟く。
「帰れなきゃ困るよ………。智と梨絵と新しく出来たショッピングモールに買い物に行く約束してるんだよ?日曜日に試合あるし、もうすぐ学園祭の準備しなきゃいけないし………」
やることはたくさんある。
買い物は楽しみにしていたし、試合は大将を任されているから絶対に休めない。
学園祭だって高校生になって初めてだからわくわくしていたのに。
それに、何より大事なこと。
「佐奈ちゃんが………佐奈ちゃんが一人になっちゃう!!」
世界で一番大切な人。
両親が他界してから、自分のことを置いてまで尊を第一に考えてくれた姉。
地球に帰れないことよりも、姉を一人にしてしまうことの方が恐ろしかった。
「あたし、まだ佐奈ちゃんに『おめでとう』を言ってないんだよ!それなのにもう帰れないかもっ……佐奈ちゃんに逢えないかもしれないなんて、そんなの―――っ!」
そんなの嫌だ。信じたくない。
尊は縋るように腕の中のディア・ガディアスを見つめる。
「ねえ、ポン太はすごい聖神(なんだよね?ポン太ならあたしを地球に戻してくれるよね?………あたしを家に帰してよぉっ!」
ディア・ガディアスは何も答えてくれない。
ただ、尊の手の中で動かないまま、静かに釦の瞳で尊を見つめていた。
佐奈から結婚報告を聞いた時、驚きとショックで固まってしまった。どうしても『おめでとう』が言えなかった。
敬史への想いに漸く決着がついて、やっとその一言が言えるところだったのに。
この世界から帰れなければ一生伝えられない。
そんなの尊にとって、トラックに轢かれて死ぬことと変わりない。いや、むしろ死んでいた方が良かった。
たとえ霊魂になったって地球にさえいるならば見守ることが出来る。
だけど、こんな見知らぬ世界では佐奈に逢うことは二度と叶わない。
「泣かないで、ミコト」
小さな掌が尊の頬を優しく撫でる。知らぬ間に頬を流れていた涙を拭ってくれた。
顔を上げると、テオドシウスが暖かい笑みを浮かべて尊を見つめていた。
「僕の国には召喚(の原理を詳しく調べている人たちがいるんだ。その人たちに聞けば、ミコトの世界への帰り方が分かるかもしれない」
「テオ………」
「だから、大丈夫。大丈夫だよ、ミコト」
安心させるように、にっこりと微笑みかけるテオドシウスを見て尊は衝撃を受けた。
(あたし、泣いてちゃだめだよ)
自分より一回りも小さい子供が慰めてくれているのに。テオドシウスとて、家から攫われてきたのに。
(泣いてる場合じゃないだろ、峰岸尊!!)
ぎゅっと歯を食いしばると、ディア・ガディアスを地面に解放して尊は顔をあげた。
「ありがと、テオ。もう、大丈夫だよ」
服の袖で押しつけるように目を擦り、にしゃっと笑う。
くよくよしていたって事態が変わるわけじゃない。
起きてしまったことを嘆くより、どう解決するかが問題だ。
来ることが出来たのだから戻ることだって出来るはずだ。
ナルニア国物語の4兄弟だって最後は元の世界に戻れたのだから。
「まずは森を抜けて、出来れば泉とかを見つけて血を洗い流して……それからテオのお家を探そう!」
「うん!」
「さぁ、ポン太もキミも一緒に行くよ!!」
「あぁ?俺も行くのかよ!?」
『きゅー』
ディア・ガディアスと子ダールを引き連れて、尊とテオドシウスは森の出口を目指し前へと進んで行った。
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