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目の前に広がる白い世界、それに胸が躍る反面、それに怯えてしまうのはどうしてだろう。清冽な冬の空気に包まれ、ありとあらゆるものがそれに呑み込まれるように溶け込んでいく。自分の前から何もかも消えてしまうような、そんな感覚に捉われる。押し寄せてくる漠然とした不安を振り払うように、私は頭を振った。 白銀の虚夢 ぱち、と目を覚まし、いつもの装束に着替え障子を開けると身震いしてしまうほどの冷気が流れ込んできた。それと一緒に飛び込んできたのは、白、白、白。その景色に思わず目を細める。 「雪、だ」 ぽつりと洩れた言葉と一緒に吐いた白い息が辺りにゆっくりと拡散する。珍しく積もるほど降った雪は一夜にして学園を銀世界へと変えた。朝も早いせいか静まり返った学園は、見慣れたものなのにいつもと違うものに見えた。その現実に、ドクンと心臓が鳴った。 「息が、白い…」 ゆっくりと呼吸を繰り返すたびに、唇から洩れた息が白く濁り、辺りと同化していく。その先に広がる白い世界に、私は目を向けて通路にそっと腰を下ろした。灰色の塀や裸になった木々、遠くに見える緑色の山々。ここから見えた様々な色が、今は雪に覆われていて見えない。そんな冬の景色を、私は頭を空っぽにして眺めた。余計なことは、考えたくない。 そうやってぼんやり辺りを眺めていると、ふわり、と突然肩に何かが掛けられた。それは温もりを持った羽織で、顔をゆっくりと動かすと、そこには少し眉を下げた兵助が立っていた。 「風邪引くぞ?」 「ありがとう」 お礼を言って掛けられた羽織に手を通したが、風邪を引くと言って私に羽織を掛けてくれた兵助もいつもと変わらぬ瑠璃色の装束姿だった。これじゃあ兵助が風邪を引いてしまう。風邪引くよ?と問い返せば、羽織は持ってるよと答えて兵助は私の隣に腰を下ろした。 「走ってたから、少し暑くて」 ひらひらと仰ぐような仕草をみせた兵助は、私から視線を逸らして白い世界に目を向けた。その黒い瞳は、白い風景を映す。その横顔をじっと見ていると、視線に気付いた兵助はちらっとこちらを向いて小さく笑った。そして、持っていた羽織を床に置くと、ひょいっと縁側から飛び降りて真っ白な地面に足をつけた。 「よっ、と」 誰も歩いていない一面に広がる白い雪の上を兵助はゆっくりと歩く。さく、さく、と小さな音を立てて、一つ、また一つと足跡を作っていく。その様子を黙って見ていると、兵助はふと足を止めた。 「」 足を止めて振り返った兵助の優しさを帯びた声がしんとした世界に響き、吸い込まれていく。兵助はそれ以上何も言わなかったけど、こっちにおいでと呼ばれた気がして私は立ち上がろうと足元に視線を落とした。すると、空から舞い降りてくる雪が今さっき出来たばかりの兵助の足跡を静かに消そうとしていた。それが何だか切なくて、恐ろしくて、思わず身震いしてしまった。じわりと湧いてくる寒気から逃げるように私は立ち上がり雪を踏んだ。 「やっぱり寒いんじゃないのか?」 目敏く震えに気付いた兵助が、そう言いながら心配そうに近づいてきた。キンと張り詰めるような空気は、彼をくっきりと浮き上がらせる。けど、一瞬にして淡い色に溶けて消えてしまいそうな錯覚に襲われる。私は、また頭を振った。 「?」 どうしたのかと首を傾げると一緒に揺れる黒くて豊かな髪、ぱちりと瞬きをするたびに目がいく長く伸びた睫毛、頬や鼻の頭に指す赤み、微かにかさついた唇、そこから洩れる白い息。兵助を構成する一つ一つを愛しく感じる。なのに、こんなに近くに兵助がいるのに、どうして胸に生まれた虚しさや切なさは消えないのだろう。 「、どうかし」 「好き。兵助、好きだよ」 遮るような、脈絡もなく性急で衝動すぎる私の告白に、兵助は少し目を見開いて驚いたあと、長い睫毛を震わせて目元を緩めた。 「俺も好きだよ」 そっと受け止めて、私だけに向けられた嫣然とした笑みをこの凛とした空気に閉じることが出来たら、と思う。けど、形ないものを留めることは出来ない。だから、私は決して忘れない。寒く冷たい冬の日に、私に向けられたその笑みを、その言葉を、彼を。互いに同じ思いを抱いている、それだけで嬉しかった幸せだった。でもいつしか生まれた不安を掻き消すために、そこにある全てを留めたい。形あるものも、形ないものも、全てを覚えていたいというのは可笑しな話なのだろうか。 「、中に入ろう」 外は冷える。そう言って優しく微笑んだ兵助はいつの間にか悴んでいた私の手に自分のそれを重ねた。触れた手は意外にも温かくて 「うん」 何だかむしょうに泣きたくなったけど、それをぐっと堪えて重ねた手にぎゅっと力を込めた。白い息がゆるゆると辺りに霧散していく中、私は確かに捉えた。冬にとける彼の輪郭を捉えた白い季節を、白い世界を、凍てつく寒さの中掴んだ唯一の温もりを。私は決して忘れはしない。そして、離さない。 |