空が暗い。黒い雲が渦巻いている。それでいながら、空気は干からびている。干からびて、乾いた、血の匂いを含んでいる。
崖の上に、彼女はいた。
かぶりを振る。
ここはどこだ。今はいつだ。自分は、何をしていた?
思考をさえぎるように、声が聞こえた。呻くような、唸るような、獣の吠え声。確信に似た予感を誘う、それは引き金だった。彼女は極々自然に全身の筋肉を緊張させ、足もとに落ちていた棒状のものを拾い上げる。
一拍遅れて、それは襲いかかった。
黒い塊。剛毛。赤い目。獣。いや、怪物か? とにかく異様なそれは、崖の下から発射されるように飛び上がって、一直線に彼女へ突きかかる。
踏み出しは、土を巻き上げた。棒の先端はあやまたず、抉り込むようにその獣の臓腑を打撃した。脆い肉が砕け散り、凶器は太い背まで突き通る。
棒にひっかけられたまま、しばらく獣は痙攣していた。やがて赤い目がぐるんと裏返り、棒から抜け落ちて、崖の下へ再び落下していく。
あらためて、彼女は手元を見た。腐肉をまとわりつかせた、棒状のもの。凶器。なんのことはない、骨だ。人骨。多分大腿骨。たまたま先端が割れて、鋭くなっていた。
――骨で殴り合いだと! 場違いな怒りが、不意にわき出てきた。軍人のわたしが。漫画の原始人じゃあるまいし。ちゃんとした武器はどこだ? なんていう上層部だ。
上層部。その言葉が頭をかすめた途端、耐え難い痛みが胸の奥を締めつけた。
「運命の弾丸」
ひきずりだされるように出てきた言葉を、声に出す。
そうだ、自分は。
「ゾンビ」
尖った骨を、足もとの地面に突き立てる。
「小隊」
呟きながら、崖の先端へ向けて歩みを進める。
「銀少尉」
風が渡り、さらけだした髪をさらう。
「皆殺し、ガキ狩り……」
傷ついた拳に、力がこもる。黒い熱風に耳をなぶられながら、彼女は天を仰いだ。
「姫園リルカ!」
絞り出すように、その名を吐き捨てる。
「あいつか! あいつが、私を――殺した!」
雪女の声へ重なるように聞こえる呻きは、幾重にも重なって、見渡す限りの荒野に満ちていた。
泣くのは亡者。ここは地獄。死後の世界。すんなり納得できる。その実感がある。
不意にシーツを翻すような音が、鼓膜を叩いた。常識外れに巨大な烏が、耳元をかすめ、地平の向こうへ滑空していく。
漆黒の馬車が、わだちを歪ませて停まる。分厚い扉が音もなく開き、突き出した黒革のブーツが、地獄の地面を踏みしめた。
黒いドレスの裾をさばいて、リルカは嵐に満ちた空を見上げる。
今、あの烏が飛んだ。部下からの合図に違いない。見間違えようのない巨大さ。
「あっちか――あの崖に」
彫刻のように整った顔へ、一抹の緊張が走った。
「いる」
地獄に立ちこめる妖気が、一段と濃く渦巻いたように、彼女には思えた。埋めたはずの腹の穴が、内臓を圧迫し始める。ひからびたはずの汗腺が、冷汗を絞り出す。
立ちつくしたのは、数秒。御者が無言のまま地に降り、彼女のあしもとへ跪いた。華美な装飾に埋もれた巨大な剣を両腕に横たえ、彼女の胸元へ捧げる。
――ドレス。馬車。御者。剣。それらを意識することで、不思議と心が落ち着いた。
手に入れるべきものは、何もかも手に入れてきた。あたしは女王。地獄の女王だ。何にも恐怖しない。何にも屈伏しない。
どうして、忘れていたのだろう? 顔に出さず、苦笑する。
御者の顔を見もせずに剣をひったくり、鞘を捨てて、リルカは無造作に歩き始めた。
雪女は、あらためて周囲を見回した。
崖の下に広がる地獄は、決して無人ではないし、ただ荒涼としているわけでもない。まったくの無人の、荒涼とした大地のほうが、まだましだったかもしれない。腐り果てた黒い水の流れる川があり、枯れたような草木が生え、あちらこちらには目茶苦茶につなぎ合わされて朽ちかけたような人間の体が幾重にも重なって打ち捨てられている。
ずれた視界の中に、自分のつま先があった。深緑に腐り果てた肉塊を踏んでいる、自分の靴。決して美しいものを愛でるような性分ではない自分が、嫌悪のあまり目をそらそうとしていたことに驚く。それでも目をそらすことなど、考えるだけ無駄だったのだろう。自分はそれの、まさに真っ只中にいる。
きびすを返した。地獄の景色に耐えられなくなったわけではない。呻き声が近づいているのに気付いたのだ。
彼女の背後、崖の根元に、数体の死人たちがいた。土気色の肌から朽ちた肉を零れさせながら、溶けた唇から緑がかったよだれを際限なく吐き出しながら、その腐ったまなこに彼女の姿を映していた。
先頭のひときわ大きな死体が、裂けた口をがくんと開いた。ねじれたように伸びた犬歯に太い視神経をひっかけられてぶらさがっているのは、潰れかけた眼球。人間サイズだと、見当をつける。
間違いない。奴らは食欲をもっている。そしてこともあろうに、それを。
(わたしに向けている――)
笑みさえ、零れそうになる。脳腐りどもへ哀れみを込めた、とっておきの笑みさえ。
「クズ肉どもめ」
唇を引き締め、彼女は吐き捨てた。
「苦しむのなら、お前らで勝手に苦しめばいい。ここは地獄だ。そうするための場所だ――でも」
無いよりはましなようだと判断して、地面に突き立てた骨を引き抜く。
「わたしは苦しまない。どんな場所も、どんな人間も、どんな死体も」
土くれが、尖った灰白色からはがれ落ちた。
「わたしを苦しめることはできない」
ブリキのおもちゃじみた緩慢さで、腐肉たちが歩み寄る。一歩。……一歩。彼女に叩き潰されるために、歩いている。そんな気さえする。
もう、苦しまない。負けない。敗北は一度きり。あれで十分。
短く息を吐いて、彼女は凶器を振りかざそうと構え、そして。
死体たちの後ろに立つ、黒服の女に気付いた。
体が、勝手に動いていた。そして今、リルカが真横に払った黒い剣の腹には、半分崩れた死人の頭が乗っている。
ゲスな死人どもなど、目に入ってはいなかった。崖の先に立つ黒髪の女の戸惑った目だけが、視界を占めていた。
「お前は」
その化粧っ気のない唇が震えるのをぼんやりと見ながら、リルカの頭は死体の処理のしかただけを考えている。完膚なきまでに叩き潰す。首を切り落としても動く死体。這いずるところを追いかけて両断し、さらに両断し、土と混じりあうまで踏みにじる。
それで十分。いつもやっていることだ。
だが、いつもやっていることを、この女の前でもやるというのか?
思考とともにこびりついた首を振り落とし、剣をもう一なぎする。頭がなくなった3つの死体たちが戸惑ったように背を向ける。その背を片っ端から立ち割る。薪のように分割されたそれへさらに刃を叩きつける。
なんて流れ作業。やっつけ仕事。低俗な仕事だわ! クソッタレが。なぜあたしがこんな仕事をしているのだ? しかも、この女のために。
視線は、自然と冷たくなった。のたうつ肉片の一つを踵で踏みつけながら、リルカは改めてその女を見る。粉々になったのが再生しているのはどういった理屈だろうか――深くは考えまい。
いずれにせよ、この地獄でいつか復活するのは予想できていた。予想できないのはそれから先だ。自分に歯向かうのか? 素直に膝を折るのか?
その答えも出さないまま、女はそのどことなく棘のある面相に、いっそう邪悪な歪みをよぎらせる。
「姫園リルカ――!」
声はいつかと同じようにかすれ、冷淡な響きを含んでいた。武器のつもりだろうか、手にした長い骨を握る拳が、白く血の気を引かせる。
この辺りを監視していた部下は、すでにいない。早々に逃げたのだろう。何せリルカが警戒している相手だ。地獄の女王、姫園リルカが。引き際を知らない死人は、地獄でも生きてはいけない。
1対1。この女と。また。冷汗をこらえて、リルカは微笑んだ。
「久しぶりね、雪女」
「久しぶりなのか? わたしは知らない――たった今、目覚めた」
一歩。距離が、縮まる。
「お前に殺される夢を、見ていた気がする。どう思う?」
なんという眼光。なんという殺気。たじろがずに睨み返しても、内臓がじわじわと冷えていくような錯覚に襲われる。
「夢じゃあないわ」
それでもなんとか、唇の端を吊り上げ、続ける。
「殺したのよ、あたしが。バラバラにぶちまけてやったわ」
「そうか」
声は、思ったより軽く響いた。軽く、あっけなく響いて、リルカを拍子抜けさせた。
「そんな気はしていた」
長く息を吐いて、雪女は手元の骨を地面に突き立てる。骨。お粗末ながらも、唯一の武器を、惜しげもなく。呆気にとられるリルカの目の前で、破れた血まみれのシャツを着た女はどっかと地面に座り込み、あぐらをかく。
「ここの地面はなんだかベトつくな。雨が降ったのか?」
あろうことか、そんなことまで尋ねてくる。べとつくのは死体が流す血のせいだろうが、今はそんなことはどうでもいい。
「……あんた」
「ん?」
「どういうつもり?」
「何がだ」
「すっとぼけんじゃあないわよッ!」
警戒心はすでにふっ飛んでいた。大股に、無造作に、仇敵との距離を詰めて、一歩の距離に仁王立ちする。雪女は何も言わずに眼を細め、うるさげな視線をこちらに向けた。
(――もう、終わったこと)
そんなものだった。思ったより早く自分の仇を眼にして、真っ先に思ったことは。
久しぶりだと、彼女は言っていた。多分、そうなのだろう。お互いに刺し違えて絶命したあのときから、随分時間が経っているに違いない。その間、自分は眠り続け――この女は、色々なものを手に入れるのに忙しかった。そんなところか。
雪女はリルカを見上げた。地獄にも仕立屋がいるのだろうか? 真っ黒な絹を無駄なくらいにちぢれさせたりおったてたりした複雑なドレス。それを飾るレース。赤い石のピアスが、彼女の小さな動きさえ見逃さず追いかけ、その度にちりちりと鳴る。舞台の小道具のように嘘臭い装飾を施された剣を右手に引っ提げて、剣と同じように飾りたてられた黒髪の女はこちらを見下ろしていた。
「なぜすっとぼけてると思う? わたしはいたって真面目だ」
女の通った鼻筋が、馬鹿にしたように長い吐息を吐き出す。
「じゃあ、あたしも真面目に聞いてあげるわ」
長いまつ毛に縁取られた目が、不意に細くなった。
「あんたは、あたしの敵?」
「生きてるときは、敵だったな」
「じゃあ、味方になるとでも」
「あのな」
言葉を遮って、雪女はあぐらの上に頬杖をついた。
「お前はまだただの小娘だ。だから言ったってわからないかもしれないが」
風が、リルカの長い髪をさらう。
「そう簡単に敵と味方で分けられるほど、世の中ってのは単純じゃないだろう? ましてやわたしは、この地獄じゃ新入りだしな」
不機嫌そうに鼻を鳴らし、小娘はドレスの裾を払った。
「決める時間が欲しいってことね?」
雪女は苦笑した。子供だ。生きていたころ、こいつは17歳だったか。わたしがその歳のころは、どんな考えでいただろう?
示された苦笑にその不機嫌な様子をますます強めた少女を見返して、雪女は風に乱れた短い髪を撫でた。
「時間があっても、決めるつもりはないってことだ」
苛だちの皺が、リルカの白い額に走る。
「どういうこと? 何が言いたい? あたしを馬鹿にしているの?」
「ああ――忘れてた。お前、頭悪いんだったな」
リルカの青い目に宿る苛だちが、怒りに化ける。剣を握る指が強く緊張するのを見ながら、雪女はあくまで淡々と告げた。
「敵にも味方にも、なるつもりはないと言いたいんだ」
物言いたげに少女の唇が開くのを見て取り、先んじて言葉を重ねる。
「わたしのことは、放っておけばいい。わたしもお前には手を出さない」
目を、見る。わずかに怒りの影を残したまま、その青は戸惑っていた。思案に揺れながら、雪女の顔と、地獄の地面を映している。
鮮やかな紅に縁取られた唇が、そっと開いた。
「……それでいいの? あんたは」
肩をすくめ、雪女はうなずく。
「それでいい。気が変わったんだ」
地面に立てた骨の柱を、軽く撫でる。
「お前に会うまでは、探し出して切り刻んでやろうと思っていたけどな。もう、そんなつもりもない。そう怖がるな」
小さく笑い声を立てる。まるっきり毒気を抜かれた様子で、リルカは呟く。
「理由を聞かせてくれる?」
「何の?」
「気が変わった理由」
「――そうだな」
額に指を当て、しばらく考える。どう言えばこの女は納得するのか。どう言えば自分は納得するのか。
難しい問いだが、それにさえ、今の自分は負けはしない――
唇の端をゆがめ、雪女は笑む。
そして、口にする。とびっきりの、傑作の答えを。
「お前が、美しかったからだ」
風が止んだ。
ちりん、と、リルカのピアスが音を立てた。大きく見開かれた青い双眸に戸惑いが渦巻く。開きかけた唇が、言葉に飢えてあえぐように何度か開かれ、閉じられる。間の抜けた顔だと思ったが、それでも彼女は美しかった。この地獄の中で、何もかも醜悪に歪めずにはいられない黒い風の中で、ただ一つ。
瞬き。美しい形の両眼が、揺れた。
「あんた――」
「だから、前のことは忘れてやる。それだけのことだ。判るな?」
答えの代わりに、リルカは大きく鼻を鳴らした。きびすを返してそむけた白い頬が、はっきりと赤みを帯びて視界に焼きつく。
「帰るのか? お姫様」
ちゃかした呼びかけに答えず、彼女は大股に歩き始める。
そのまま数歩を見送って、黒い後ろ姿が黒い森に消えるその直前、雪女はぼそりと呟いた。
「また来い」
小娘が、立ち止まる。
「お前の顔を、また見たい」
声が届いたかどうかなど、知る由もないし、そんなことはどうでもいい。ひょっとしたら森の手前で、着飾った女は振り向いたかもしれなかったが。
走る土埃は、何もかも隠して、黒い雲の中に吸い込まれていった。